《フランス音楽の彩と翳》シリーズを、12月にお届けする機会が初めて巡って参りましたので、 今回は、クリスマスにちなんだプログラムを選曲致しました。
クリスマスの事を、フランス語では《Noël》と言います。 これは、俗ラテン語のnotalis、古典ラテン語のnatalisを語源としている言葉で、 現代フランス語で《生まれる》という意味のnaîtreと同じ源であるといわれています。
キリスト教の中でもカトリックが主流なフランスは、12月25日を宗教祝日だけでなく、 国の祝日に指定しています。官公庁、郵便局、銀行は勿論、多くの店やレストランも休み、 ドンチャン騒ぎとは無縁です。真夜中のミサに参列する以外は外出せず、普段は遠く離れて 暮らしている家族も集まって、身内で温かく、静かに過すお祭りが基本。 ドンチャン騒ぎは12月31日夜で、花火や爆竹を鳴らしたり、友人達と繰り出して、 賑やかに飲み明かし、飲酒運転を取り締まるお巡りさんが、活躍する場となります。
とは言っても、食道楽のフランス人ですから、クリスマスも、ミサに行く前か、 ミサから帰ってからは、家庭でシャンパンや年代物のワインを開けて、フォワグラ、 生ガキに始まり、ビュシュ・ドゥ・ノエル(bûche de Noël)と呼ばれる薪の形をした ケーキのデザートまで、しっかりと食べます。中には、肝心要のミサに行く時間も惜しんで 飲み食べ続けている不心得者も居ます。私には、他の人の事を批判する資格は、全くありませんが。
12月に入った頃から始まる、シャンゼリゼ通り等のイルミネーションは見事なものです。 葉が落ちて枝だけのマロニエ並木に、無数の白色電球をちりばめた単色照明が、コンコルド広場の 白色街灯と絶妙なバランスで協和します。35年前、この情景を初めて見た時、色を使い過ぎない 上品なセンスの色彩感覚に、思わずはっとさせられました。昨年から、省エネの為に、 シャンゼリゼ通りは、ブルーのLED(発光ダイオード)に代えられました。 鮮やかできれいなブルーですが、以前の白色を懐かしむ声も聞かれます。
10月下旬から旅に出て、パリに戻っていないので、今年の飾り付けがどの様か、残念乍ら、 お伝えする事は出来ません。この時季にパリにお越しの折には、マドレーヌ寺院、 ノートルダム寺院等にある、キリスト生誕の場面を人形で箱庭風に飾り付けたクレシュ(crèche)や、 オペラ座裏で2軒並んでいるデパートのディスプレイもご覧戴き、厳粛さの中に楽しさを混ぜ合わせた、 本場のクリスマスの独特な雰囲気を味わって戴けたらと思います。
有名なガヴォットの作者で、フリーメイソンだったゴセックは、当時フランス領で、 現在はベルギー領になっているヴェルニー(Vergnies)で農家の子として生まれました。 幼い頃から音楽に親しみ、声楽、ヴァイオリンを学んだ後、ラモーの知己を得て、 17歳の時パリへ移住。コンティ家の音楽監督、 コンセール・デ・ズアマトゥール、 コンセール・スピリテュエルの指揮に携わる一方、フランス最初の交響曲作家として、 95年の生涯に、40曲以上の交響曲、20曲以上のオペラ、多数の宗教曲、室内楽曲を残しました。 又、1795年には、パリ音楽院設立に力を尽して、監察官、作曲家教授という立場で、 後進の指導に当りました。フランス革命期を代表する作曲家の一人です。 ゴセックによって拡げられたオーケストラの表現力は、ベルリオーズの創作意欲に強い刺激を 与えました。
1766年に作曲された《クリスマス組曲第1番》は、200年後の1966年に初出版されました。 今夜は、アドリブ(使用任意)のコーラスを除いて、純然たる器楽曲として演奏致します。
絵本作者で画家のアンドレ・エレは1913年2月に、子供のためのバレエ台本を ドビュッシーに見せました。エレの構想に夢中になった彼は、同年10月には、 ピアノ譜を完成し、エレの素朴で可愛らしい挿し絵と台本を付けて出版されました。 ドビュッシーは、オーケストレーションにすぐ取り掛かりましたが、ロシアへの演奏旅行、 第1次大戦の勃発等で中断され、管弦楽版は、ドビュッシーの没後、友人であった、 アンドレ・カプレの手によって完成されました。ドビュッシーが、娘のシュウシュウのために 作曲したピアノ曲《子供の領分》をオーケストラ用に編曲したのもカプレです。
「人間の社会こそが、おもちゃ箱の中と同じではないか」と前口上で明らにされる プロットやエピローグでプレリュードと同じ場面に戻る世界観、大戦前夜の不穏な時世、 フランスの童謡、ビゼー、グノー、メンデルスゾーン、自分の旧作等からのパロディー的 引用による、ドビュッシーらしい軽い皮肉混じりのユーモアは、全て、この曲が、 単純に子供のためだけに書かれた無邪気な作品ではない事を物語っています。 ドビュッシーは、「人形の魂は、メーテルランク(オペラ《ペレアスとメリザンド》の台本作者) よりも難しい」と述懐しております。
バレエとしての初演は、1919年12月10日に、キノーの振付、エレの舞台装置と衣裳、 アンゲルブレヒトの指揮により、パリのヴォードゥヴィル劇場で行われました。
全体は、
の6つの部分から成っています。今夜の演奏のために、ピアノ原譜の挿し絵とスコア に書かれたバレエ台本を基に、ナレーション台本の書き下ろしを試みました。
ゲルマン系スイス人の両親を持つオネゲルは、ノルマンディーの港町、 ル・アーヴルに生まれ、チューリヒとパリの両音楽院で教育を受けました。 《6人組》の一人ですが、ゲルマンとラテンの狭間で育った彼の作品には、ユニークな響きと 音楽語法が顕著に現れています。生涯で2度も体験させられた、ドイツとフランスの 壮絶な戦いは、その様な文化的下地を持つオネゲルに、自己分裂的な苦悩と、 深い悲しみをもたらしました。
第2次大戦間近の1930年代終りに、オネゲルはベルンに住む友人で、詩人、 台本作者のセザール・フォン・アルクスから、新らしい受難劇の協同製作を提案されました。 旧約・新約聖書を網羅し、上演には、昼食・夕食休憩も挟み、8時間はかかるという巨大な作品 になるはずでした。ところが、台本が完成し、作曲もほとんど仕上った1944年12月に、 フォン・アルクス夫人が亡くなると、その数時間後に、夫のセザール本人も後追い自殺を図る という悲劇が起こり、ショックを受けたオネゲルは、草稿を戸棚の奥深く仕舞い込んで、 封印してしまったのです。
顛末を聞き及んだ親友の指揮者、パウル・ザッハーは、この作品の一部だけでも 日の目を見る機会を作ろうとオネゲルを説得し続け、ザッハーが創立したバーゼル室内合唱団の 25周年記念に上演する事を提案しました。数年前から健康が優れなかったオネゲルですが、 親友の頼みに否とは言えず、封印した楽譜を再び取り出して、改作・編集に励み、 《クリスマス・カンタータ》として1953年1月25日にパリで完成。同年12月16日(一説には12日) にザッハーの指揮により、バーゼルで初演されました。
オネゲル最後の大作となったこの作品は、フランス語、ドイツ語、ラテン語が 交唱し合ってクリスマスを喜こび祝うという、オネゲルの独仏宥和への熱い祈願が 込められております。中でも、4曲のクリスマス・キャロルが、歌う声部と言語を交換しながら 同時進行する中間部分は圧巻で、いつの時代にも、他者の(歌)声を聞き、 その歌を歌い継ぐ姿勢の重要さを象徴的に指し示した、オネゲルの遺言とも思われる強い メッセージを発しています。