マルケヴィチ版の使用について
私たちは2000年に、ベーレンライター校訂新版による日本初
のベートーヴェン全交響曲ツィクルスおよび録音を行いました。
古楽器的な演奏スタイルによるこのときの経験は、私たちに
とって新鮮かつ衝撃的であり、決して忘れることのできない財産となりました。
10年を経た今、音楽における聖書ともいえるベートーヴェンの交響曲と改めて
取り組む決意に至り、その本質に迫るべく熟慮を重ねた結果、行き着いたのが
今回のI.マルケヴィチ版です。
ベートーヴェンの演奏スタイルは現在、大きく2つの流れに分かれています。
作曲当時の状況に忠実であろうとする古楽器的スタイルに対し、200年の歴史
を通して発展してきた伝統的な演奏スタイルは、
当時の楽器の性能等による制約に着目し、改革者としての
ベートーヴェンの本質に立脚して、彼が本当に表現したかったことを汲んで
実現しようとするものであり、マルケヴィチ版は後者にあたります。
名指揮者ワインガルトナーは自著で多くの演奏上の助言を述べ、
数々の指揮者たちがこれを採り入れました。
こうした重厚でいわばドイツ的な演奏傾向は、
フルトヴェングラーに至って極まります。
しかし、フルトヴェングラーの偉大な表現は彼の天才によるものであって、
今ここでそれを採り入れることは私たちの目指すところではありません。
これら巨匠の時代は20世紀半ばまで続き、この頃にマルケヴィチが活動を始めます。
ロシアに生まれスイスに育ったマルケヴィチは、パリで音楽を学び、指揮者として
欧米各地で活躍しました。指揮する各地の名門オーケストラで巨匠たちの残した楽譜
に接するうち、彼は、このまま放置すればベートーヴェンの音楽を正しく継承でき
なくなる、と危機感を抱きます。客観的で体系的な1つのベートーヴェン像を
どうしても打ち立てなければ、という驚くべき責任感のもと、国立図書館等の
あらゆる所蔵資料はもとより、各オーケストラのライブラリアンから厖大な資料
を集め、コンサートマスターたちと議論を重ねました。
スタッカートの音の長さ、ダイナミクス、
テンポ、フレージング、
ボウイング、リピートなどの問題を、
作曲の経緯および時代背景や楽器の改良の歴史も含め、ここまで徹底的に
調べ上げた版は他にありません。その結果マルケヴィチ版は、演奏における実際と
音楽理論の両面を踏まえ、良心的で客観的な判断にもとづき、有機的に
9つの交響曲を完璧に体系化し完結させた、かつてない版となりました。
一般に一番多く指摘される問題として、ベートーヴェンが指定した
テンポがかなり速いということがあります。
マルケヴィチは、ベートーヴェンが弟子のシントラーに対し、ホールの響き、
演奏するオーケストラの国民性や演奏家のコンディション、その日の天気まで
考慮してテンポを決めるべきだと述べた、と指摘しています。
もう1つ重要な点として彼は、耳が聞こえず外界から遮断されていたベートーヴェン
が閉ざされた内面で想像していた音と、ホールの空間に実際に響く音
との間に差異が生じたとしても不思議はない、ということにも言及しています。
さらに、厳しい精神の持ち主だったベートーヴェンが、技術的に不足な当時の演奏家
への戒めとして速いテンポを記した可能性も、
マルケヴィチは指摘します。
いずれにしろ、ディジタル的にテンポを指定しても、ベートーヴェン独特の
激しい気性、気品、優雅な温かさ
、といった深みのある特徴は表現できない、としたうえでマルケヴィチは、
名指揮者たちのテンポも調べ上げ、妥当と思われる線を推奨しています。
音の長さについても、伝統的に1種類のスタッカートにまとめられてしまって
いたものを4種類に区別するなど、1つひとつの音の長さを尊重し、
その結果として音楽の歌う要素が大切にされていることも、
この版の特徴です。
最も重要なのは、マルケヴィチ版は彼個人の主張ではない、
ということです。
これだけ徹底的に究め尽くしながら、ベートーヴェンの音楽的発想を尊重し、
最後にはやはり演奏家自身が決める、というある程度の自由さを
もっていることが、この版の最大の魅力です。
マルケヴィチ版の持つ客観性は、
いわばコスモポリタンである彼が、
指揮者、作曲家として豊富なキャリアを持っていたことの賜物であり、
それだけに、完成直後に急死してしまって実演を残せなかったことは大変残念です。
これまで個々の交響曲がこの版により演奏されてはいますが、全交響曲ツィクルス
ならびに録音は、今回が世界初となります。
偉大な芸術作品には、厖大な資料収集と徹底した研究、有機的で良心的な
思索を重ねる努力がなされる限りにおいて、さまざまな角度から光を当てることが
できます。それにしても、憑かれたように1つの物事に打ち込んで究めるまで
やり遂げる、その並外れた意思の力は、マルケヴィチとベートーヴェンの
共通点であるように思われるのです。
写真:金子 力

